コール・ソレイユ50年の歩み
~第50回記念定期演奏会に寄せて~
東京外国語大学混声合唱団コール・ソレイユは、創団50年を迎えようとしています。一時は団員数が少なくなり、バスのパートが一人になってしまったこともある危機を、よくも乗りきってここまできたものだと思います。この半世紀を振り返ると、さまざまなことがありました。
コール・ソレイユの誕生
1976年に結成された団が、なぜ2024年末に第50回定期演奏会を終えているのかという疑問を抱かれた方もいるでしょう。それは、1975年11月24日に北区西ヶ原の講堂で「モーツァルトのレクイエムを歌う会」が外語大オーケストラと共演した外語祭のコンサートを、第1回定演と数えているからです。(実は、相当無理なお願いをして共演していただいたのが真相です。オーケストラの皆さん、当時は本当にお世話になりました。)
現在「コール・ソレイユ」は外語大唯一の混声合唱団ですが、その前身は「コール・ユーベル」という合唱サークルです。(東京外国語大学と女子栄養大学、女子栄養短期大学(当時)の学生たちからなるサークルで、1974年まで活動)。「コール・ユーベル」の解散後、有志により「モツレクを歌う会」が立ち上げられ、その会を発展的に解消させて生まれたのが「コール・ソレイユ」なのです。
ここで「コール・ソレイユ」の名前の由来を紐解いてみましょう。ときは1976年。外語祭でのコンサートのあと「この合唱団で活動を続けたい。新しく名前もつけよう」ということになり、各自が案を持ち寄ります。ゲルマン諸語専攻のメンバーが推す「フォイエル・コール」、ロマンス諸語専攻が推す「コール・ソレイユ」、さらに「コール・フェニックス」などが候補に挙がる中、最終的に当選したのは「コール・ソレイユ」。発案者は、ひまわりが描かれている洋品店の紙袋の「る・それいゆ」という文字を見て「明るくて、元気で、おしゃれ」な名前だと思ったから、といいます。
合唱団としての体制づくり
こうして生まれたコール・ソレイユは、1978年、鈴木成夫氏が指導してくださるようになり、何とか合唱団としての体制が整ってきました。部室は木造校舎サークル棟の2階、練習は1階の練習室で週2回、水曜日と土曜日の午後に行っていました。
当時のソレイユの重要課題は、第一に人数を確保すること、第二に技術的な向上でした。前者は勧誘もさることながら入団者を辞めさせないことが重要で、そのためには合唱以外でのコミュニケーションが肝心とばかり、練習後は毎回巣鴨で飲み、語り、真夜中の染井霊園を合唱しながら帰るということもしばしばでした(もちろん男声団員の話ですが)。その結果、むしろ純粋に音楽が好きで入団したものの、やや体育会系の雰囲気に尻込みしたという人も無くはなかったようで、反省材料ではあります。
第二の技術的向上については、鈴木先生の熱心なご指導のお陰で、音楽的な基礎はこの頃に確立されたと思います。練習は相当に厳しいものでしたが、先生の音楽へのパッションと関西風のお笑いが混交した指導ぶりは大変印象的でした。
木下作品で発展・成長
鈴木先生には、曲選びに関しても感謝しなければなりません。結成当時はモーツァルトやヴィヴァルディ、フォーレといったいわば合唱曲の定番をとり上げていたのですが、先生には、あまり知られてはいないけれども、とても素敵で技術的にもソレイユの成長につながる曲をたくさん紹介していただきました。
その中の大ヒットが、木下牧子先生です。木下先生は、合唱をする人であれば今日知らぬ者はいない、日本を代表する作曲家の一人で、出世作「方舟」は合唱コンクールの自由曲に必ずとりあげられるといっていいほどの定番となっていますが、ソレイユがそれを委嘱・初演する(カワイの楽譜を参照)きっかけをつくって下さったのが鈴木先生でした。
「芸大の院生で、木下さんというとっても才能豊かな作曲家がいるが、彼女に委嘱作品を」という先生の提案に、私達は半信半疑、「本当に実現できるの?おもしろそうだけど謝礼が高いのでは?」など戸惑うことしきりでしたが、鈴木先生を信頼してお願いしたところ、本当に美しい、そしてちょっと難しい曲が次々と私達に届けられたのでした。今思えば、何と贅沢でありがたい話だったことか。手許にある当時のご本人手書きの楽譜を見ると、難しかったけれども歌えるようになればなるほどそのハーモニーに魅了され、木下ワールドの虜になっていったあの頃が懐かしく思い出されます。
以来、木下先生には次々と委嘱作品をお願いし、そのお陰でソレイユも「業界」ではすっかり有名になりましたが、それらの作品を通じて発展・成長を遂げることができたという意味で、鈴木先生(先生のパートナーでピアニストの山内知子先生ともども)と木下両先生は、ソレイユの歴史における最大の功労者なのです。
広がる交流
1982年には「第1回東西外国語大学交歓演奏会」を大阪で行いました。これは、東京外大の姉妹校といえる大阪外大(現大阪大学)の女声コーラス部およびグリークラブとの合同演奏会です。この交流は、東京と大阪を交互に会場とし、2年に1度のペースで1995年の「第7回」まで続きました。
1984年の第10回定期演奏会では、卒団生と現役の合同ステージが初めてもたれました。曲目について卒団生にもアンケートをとった結果、第6回定演で「方舟」を初演して間もないこともあり圧倒的な賛同を得て「方舟」に決まりました。また1994年の第20回記念定期演奏会でも、合同ステージがもたれました。初期の頃の卒団生と現役では親子ほどの世代の差がありましたが、ソレイユにとって原点とも言える曲「方舟」を、心をひとつにして歌いました。この翌年も合同ステージをもち、同じ木下先生に1983年に委嘱した「ティオの夜の旅」を歌い、これらはCD化され、発売されました(「シリーズ 日本の合唱曲7木下牧子混声合唱作品集 ティオの夜の旅」フォンテック)。
その後、1998年には、鈴木先生が同じく指導される東京大学コーロ・ソーノ合唱団、東京家政大学フラウエンコール、日本大学合唱団との合同合唱団「遊声」を結成し、毎年夏にジョイントコンサートを行うほか、海外から合唱指導者を招聘し、一般のお客様向けに講習会を主催するなど多彩な活動を行ってきました。
その同じ年に行われた全日本合唱コンクール全国大会では、大学の部A部門で銀賞を受賞しました。また、翌99年の東京外国語大学独立百周年記念行事では、講堂で行われたタケカワユキヒデさんのコンサートに参加し、「銀河鉄道999」などを一緒に歌い、百周年を記念に製作された大学歌ならびに愛唱歌のCD録音を行いました。
「遊声」の仲間に支えられた日々
2000年9月、東京外大は染井霊園近くの西ヶ原から多磨墓地近くの府中市朝日町に移転しますが、その頃のソレイユは混声四部合唱が成立するギリギリの人数まで団員が減少していました。移転当初、学内ではピアノもない部屋での練習を強いられる中、団員たちの支えになったのは「遊声」の存在。お互いの練習を見学し合って切磋琢磨する仲間であり、かけがえのないライバルでした。
2007年の「遊声」第10回記念演奏会の現役生、卒団生合同ステージの曲目として選ばれたのは木下牧子先生の「方舟」。ソレイユ単独練習の際は「パートが二つに分かれると歌う人がいない」といった困りごともありましたが、合同ステージではソレイユゆかりの曲を大人数で歌う喜びが感じられました。また、2017年の第20回演奏会では多田智満子詩、木下牧子曲の「悠久のナイル」を初演(ライブ録音のCDがジョヴァンニ・レコードより発売)するなど、新しい曲にも挑戦しました。
合唱活動以外でも交流が深まり、団を越えた仲間ができ、生涯の伴侶を得た団員もいます。春の新入生勧誘は他大学の力を借りて行い、団員数の回復につながったという「裏技」も、今だから言ってしまいましょう。
数々の名曲との出会い
コール・ソレイユは21世紀に入っても素敵な曲を演奏する機会に恵まれてきました。信長貴富作曲「初心のうた」はその一つです。信長先生が上智大学アマデウスコールの学生指揮者だった頃から学指揮仲間同士の交流はありましたが、ソレイユで初めて先生の作品が演奏されたのは2003年のこと。2002年にエオリアンコールの委嘱により混声四部版「初心のうた」(全5曲)が誕生。2003年4月に三大学女声合唱団連盟による演奏を聴いたソレイユの団員たちが「この曲集をぜひ歌いたい」と意気投合し、同年12月の定期演奏会で演奏されました。その後、2006年には混声合唱組曲「朝のリレー」(全曲版)を初演。今なお信長先生の曲は大人気です。
作曲家の先生から直接ご指導いただけるのも貴重な経験です。第40回記念定期演奏会では横山潤子先生の組曲「未確認飛行物体」を初演したのですが、練習を見に来られた横山先生が大人の色気を出せない団員に勉強法をアドバイス、といった一幕もありました。
外国語大学ということもあり、さまざまな言語の歌を歌ってきましたが、朝鮮語の楽曲に初めてチャレンジしたのは2018年のこと。韓国にルーツを持つ団員の協力で、慣れないハングルの発音に四苦八苦しながらも、アリランなどの朝鮮民謡を演奏しました。
卒団しても続く楽しみ
2004年には、鈴木先生の常任指揮者就任25周年を祝う会をきっかけに、「卒団生の会」を再建。卒団生の親睦と現役団員の合唱活動への支援を二本柱として活動しています。2009年の第35回記念定期演奏会では、卒団生を交え「ティオの夜の旅」がソレイユで14年ぶりに演奏されました。同時に木下先生に「あお」というアンコールピースを委嘱・初演しました。木下牧子曲「旅の歌」(2004年)、萩京子曲「こころいき」(2019年)など卒団してもなお、新しい楽曲の誕生に立ち会うことができるのは、ソレイユならではの楽しみです。
演奏の場
活動の場は、定期演奏会やジョイントコンサートにとどまりません。2007年には久しぶりに全日本合唱コンクール東京都大会に出場、木島始詩、信長貴富曲「ねがいごと」から「夏のえぐり」を演奏し、結果は金賞。残念ながら全国大会への出場権は得られませんでしたが、コンクールに向けた練習の積み重ねや、コンクール特有の緊張感が新鮮な刺激となりました。
大学も重要な活動の場です。2010年以降、外語祭の定番となっているミニコンサートでは定演で演奏する曲目のほか、愛唱曲もお披露目。2014年には、外語祭の企画で学長賞も受賞しました。入学式や卒業式で学歌を演奏するのも、大学唯一の合唱団コール・ソレイユのお仕事。歌詩の2番まで歌えるのはソレイユ団員だけかもしれません。
ピアニストたちの彩り
コール・ソレイユの歴史を語る上で欠かせないのが、ピアニストの先生方です。山内知子先生との最初の共演は1983年の「ティオの夜の旅」の初演に遡ります。その後も鈴木先生と山内先生とのゴールデンコンビにより、ソレイユは幾多のステージを重ねます。2008年には前年の「遊声」で初演した「スピリチュアルズ」のピアノ四手連弾版を信長貴富先生に委嘱。初演の場となった杉並公会堂の舞台には、ピアニストの山内先生と客演の大竹くみ先生のアンサンブルに誘われるように熱演する団員たちの姿がありました。
合唱曲の作曲で知られる森山至貴先生は、ソレイユの学指揮の高校時代の先輩。2003年から2004年にかけて学生ピアニストとして共演くださいました。2011年には混声合唱とピアノのための「さよなら、ロレンス」が第22回朝日作曲賞を受賞。2012年の「遊声」第15回記念演奏会で全曲公開初演されました。(森山先生自身が「悪いけどピアノ大変」と釘を刺す作品を演奏したピアニストは、もちろん山内先生です。)
もう一人西下航平先生をご紹介しましょう。西下先生は、室内楽・管弦楽・吹奏楽などジャンルを問わず多くの作品を発表し、合唱曲もカワイ出版から複数出版されている若手作曲家。ソレイユとのご縁は2012年、学指揮ステージのピアニストとしてお迎えしたときから始まります。団員の高校の合唱部の後輩で、当時は東京音楽大学の作曲専攻の2年生、まだ20歳の若さでした。いざ合唱と合わせてみると、その歌いやすさに団員一同感動。彼の純朴な飾らない人柄も相まって、2020年からは正ピアニストとしてお世話になっています。
真下先生との出会い
ときを同じくして、真下洋介先生に常任指揮者をお願いすることになりました。しかし、真下先生と音楽を作り上げていこうとしていた矢先、新型コロナが世界的に猛威を奮います。ソレイユでも集まることが制限され、オンラインで練習する日々が続きました。大学の音楽室での活動が再開された後もコーラスマスクが手放せず、2020年の第46回定期演奏会は初めてのオンライン配信となりました。
コロナ禍でオンラインイベントが増えましたが、合唱の世界も例外ではありません。2021年9月には神奈川県のリモート合唱コンクールに参加。各自が独唱で録音し、それをつなぎ合わせたものを演奏作品として提出するという形式に戸惑いはあったものの、優秀賞を受賞。配信型の演奏会に可能性を感じました。
そして迎えた2021年12月25日。お客様の前で演奏する2年ぶりの定期演奏会の締めを飾ったのは、混声合唱曲「うたうこと」です。クリスマスに西下先生からプレゼントされたこの曲を、団員たちは喜びをかみしめながら、大切に歌い上げました。
2023年から東京農業大学のHallen Chorとのジョイントコンサートも始まっています。コロナ禍収束後、「活動拡充のためにもジョイントをやってみませんか?」と真下先生に提案されたのがきっかけです。年1回の演奏会を通して同世代の仲間と交流ができ、合同によるスケールメリットを生かした作品にも取り組めるようになりました。
2024年12月の第50回記念定期演奏会。卒団生とともに歌うのは、亡き谷川俊太郎と、川崎洋、岩間芳樹作詩、新実徳英作曲の「空に、樹に…」と、高橋暁子作詩、西下航平作曲の「いちょうの葉のしおり」(委嘱・初演)です。
これから先もコール・ソレイユが陽だまりのように温かく、新しいことに挑戦、成長していけますように。
[東京外国語大学混声合唱団コール・ソレイユ卒団生の会]